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上方落語無冠の帝王六代目笑福亭松鶴はすごい!!

昨年2018年に松鶴の33回忌が催されたました。

 

古すぎて誰のことか判らない!?

 

この人の一番弟子は、最近休みがちですがNHK「お笑い笑百科」の司会の笑福亭仁鶴です。

 

弟子の中でも今有名なのはNHK「鶴瓶の家族に乾杯」でも活躍している笑福亭鶴瓶です。

 

東京に軸足を移して活躍している笑福亭鶴光も弟子ですよ。

 

あの明石家さんまは松鶴の弟子ではありませんが、もともと笑福亭一門の落語家で最初の頃は笑福亭さんまと名乗っていました。

 

六代目松鶴の同門の落語家(六代目の実父である五代目松鶴の弟子)で、先日93歳でなくなった二代目笑福亭松之助がさんまの師匠です。

 

さんまは師匠松之助のアドバイスもあり落語をはなれてお笑いタレントになりました。

 

笑福亭一門の総帥である六代目松鶴から師匠の松之助に、落語をやらないものに笑福亭を名乗らせることについて難色を示されました。

 

師匠の松之助は自分の本名の明石にちなんで明石家の屋号を付けたものです。

上方落語の歴史と復興への道

上方落語も昭和の初めまでは初代桂春団治の活躍もありずいぶん人気がありました。

 

初代春団治は歌謡曲や演劇などのモデルにもなっていますが、落語家で初めてレコードに落語を吹き込んだとしても有名な人です。

 

春団治の没後は、関西の有力興業会社吉本興業の方針もあって漫才が全盛を極め、1940年代ごろには落語は死に絶える寸前にまで追い込まれました。

 

かろうじて五代目笑福亭松鶴(六代目松鶴の実父)、二代目桂春団治(三代目春団治の実父)、四代目桂米團治(三代目桂米朝の師匠)らの頑張りでかろうじて命脈を保っていました。

 

ところがこの五代目松鶴が1950年、四代目米團治が1951年、二代目桂春団治も1953年に次々と亡くなってしまい上方落語は危機に瀕してしまったのです。

 

四人の若手(当時)が、奇跡的にこの師匠方のなくなる直前の1947年に入門しました。

 

一人目は四代目桂米團治に19歳で入門した三代目桂米朝です。

 

二人目は実父の二代目桂春団治に16歳で入門した三代目桂春団治(最初の名前は桂小春)です。

 

三人目は実父の五代目笑福亭松鶴に35歳で入門した六代目松鶴(最初の名前は初代笑福亭松之助)です。

 

正式に入門したのは35歳の時ですが、六代目松鶴は15歳くらいから父親の五代目の手伝いをしていたので実際の落語歴は正式資料よりはかなり長くなります。

 

四人目は四代目桂文枝に17歳で入門した五代目桂文枝(最初の名前は桂あやめ)です。

 

この四人の頑張りから、のちに「上方落語四天王」と呼ばれることになりました。

 

この4人はそれでなくても戦後すぐの「食うや食わず」の時代であったにもかかわらず、好きな落語を復興させようと上方落語の氷河期に努力を続けてきました。

 

幸い1950年ごろからはラジオ放送で落語も取り上げられるようになり、それまでの当時の若手落語家の努力もあって上方落語は復興してきたのです。

 

復興の立役者の紹介

四天王と言われる四人の中でも松鶴と米朝が特に傑出しています。

 

最初の頃は松鶴が米朝よりも7歳上で、正式の弟子入りよりずいぶん前から父親の五代目松鶴を見ていましたから、正式に弟子入りする前からかなりの数の噺を覚えており演じる噺も圧倒的に多かった。

 

しかもその語り口も立て板に水と言われるくらい優れていましたから、四天王の中では頭一つ以上抜き出ていた感じでした。

 

ただ松鶴は酒でのしくじりもあり、1974年ごろに患った脳溢血の後遺症でろれつが回りにくくなったこともあり高座の数もやや減っていったことが残念です。

 

米朝の方は粘り強く稽古に励み、また滅びかけていた噺をたくさん復活させたことや、上方落語に関するたくさんの著作もあることから功績は大きいというのが一般的です。

 

確かに松鶴はこういった面で米朝の後塵を拝していますし、見た目の風貌でも負けています。

 

米朝はご存知のように端正な顔立ちですが、松鶴の方はかなりの強面です。

 

春団治もなかなか男前ですし、文枝も全体に柔らかい感じで大阪一上品な「船場」の噺がよく合います。

 

我が松鶴師匠は本当に怖そうに見えます。

 

私が50年くらい前に新聞で見た記事では、たまたま松鶴師匠が頭を丸刈りにしていたそうです。

 

その時に組の若い者風の男が「長のおつとめご苦労様でした」と声をかけてきました。

 

多分刑務所に入ると男は丸刈りにされますから、松鶴は出所直後と間違われたのでしょう。

 

他にも怖い人と間違われたエピソードがあります。

 

これはWikipediaに書かれていることですが、春団治と松鶴がそれぞれの弟子を連れて新世界で飲んでいる時の噺が紹介されています。

 

近くでヤクザが女性に因縁をつけているのに気が付いた松鶴が春団治に「三代目」と声をかけます。

 

松鶴の意図を察した春団治がこれに「六代目」と応じ、弟子も「おやっさん」と松鶴に呼びかけます。

 

そのヤクザはそっと席を立って行ったようです。

 

一方の旗頭の米朝は何といっても重要無形文化財保持者として人間国宝となっています。

 

その後文化功労者から文化勲章まで受賞しています。

 

極めつけは「従三位」(昔で言えば公卿にあたります)という官位を追贈されています。

 

同じ人間国宝の柳家小さんが「従五位」にとどまっていることからも米朝の偉さがわかります。

 

一方松鶴は1968年に68歳の若さで亡くなっていますので、勲章はもとより大きな栄誉を受けるのは難しかったようです。

 

松竹の社長を怒らせたことで有名な酒癖の悪さなどもあり、本当は面倒見の良い人だったようですがあまり人格的に高い評価を受けるのは難しい人です。

 

大阪府の芸術関係の賞はもらっていますが、全国版の賞では1970年度に「笑福亭松鶴の会における市助酒」の話芸に対してもらった芸術祭優秀賞くらいです。

 

だからあえて無冠の帝王と言っていますが、松鶴が70歳を越えるまで存命でしかも運が良ければ紫綬褒章くらいもらえたかもしれません。

 

演目の「らくだ」で分かる松鶴のすごさ

「らくだ」という噺はもともと上方噺ですが、東京でも古くは古今亭志ん生や三遊亭圓生も演じ有名な演目です。

 

登場人物も多く、最初ヤクザに脅かされ困っていた主人公が、酒に酔った勢いで弱い立場を逆転させていく過程を演じていくのも難しい噺で、東西の落語界とも大真打の演ずる大ネタの一つだと言われています。

 

この「らくだ」の演者として最高だと衆目の一致するのは、東西の落語家を通じて何を隠そうこの六代目笑福亭松鶴です。

 

東京落語の若手の花形だった三代目古今亭志ん朝や七代目立川談志が来阪したときに、この松鶴が苦心に苦心を重ねた「らくだ」の完成形を聞いたときには身震いが止まらなかったとか、口もきけなかったと評しているくらいです。

 

また、ライバルともいわれ松鶴よりも全体として評価が高いと言われている米朝でさえ、松鶴存命中は「らくだ」を高座にかけることはなかったといわれています。

 

また笑福亭一門では師匠の完成された噺を聞いてきたせいか、他の噺は演じますがこの「らくだ」だけはなかなか誰も演じようとしなかったようです。

 

松鶴は1986年に亡くなっていますが、鶴瓶がやっと2007年ごろに初演し、東京に軸足を移している鶴光も周りから攻められてやっと2010年くらいからこの「らくだ」を演じるようになりました。

 

それくらいこの「らくだ」を演じるのは難しい噺です。

 

まとめ

六代目松鶴は、酒乱ともいわれ、豪放磊落ともいわれ、破天荒な落語家と言われていますが、実はかなり面倒見の良い人だったようです。

 

だからこそ弟子たちが30年も過ぎた後になっても「33回忌」を執り行ったのだと思います。

 

また上方落語協会の2代目会長ということもあったのかもしれませんが、東京から落語家が見えると舞台のトリはその人たちに任せるという心遣いもしたようです。

 

また、東京の若手落語家、特に談志や志ん朝をよくかわいがってて随分ごちそうもしたそうです。

 

亡くなってもう33年になり、残念ながら実物を見ることはできませんがネットで調べてみると動画で六代目松鶴の「らくだ」を楽しむことができます。

 

鶴光の動画もありますから松鶴のものと見比べてみると、鶴光が長い間演じるのを遠慮していたこともわかりまだまだ努力が必要です。