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落語

昭和の名人落語家六代目三遊亭圓生は素晴らしい

若い方で圓生のことをご存知の方は少ないと思いますので、簡単に紹介します。

 

六代目三遊亭圓生は1979年に79歳で亡くなっていますので、没後もうすぐ40年になります。

 

今笑点で活躍している六代目圓楽はこの圓生の孫弟子に当たります。

 

もう少し詳しく言うと、2009年に亡くなった五代目圓楽(笑点の先々代司会者)が六代目圓楽の師匠ですが、この五代目が六代目圓生の直弟子だったのです。

圓生の輝かしい経歴

昭和以後たくさんの落語家が輩出していますが、その中で圓生は落語家として最初に栄誉を受けたことがいくつかあり、その他にもいろいろな栄誉を受けたという輝かしい経歴の持ち主です。

 

(1) 圓生が受けた落語家としては最初の栄誉

一つ目は1967年度に芸術選奨文部大臣賞を受賞したことです。

 

この芸術選奨は現在文化庁が所管していますが1950年度から始まりました。

 

最初は「演劇」「音楽」「舞踊」「文学」「美術」「古典芸術」の6部門だったようです。

 

第1回目は「歌舞伎」の七代目坂東三津五郎、「文学」では「ビルマの竪琴」で有名な竹山道夫が受賞しています。

 

この受賞は文化庁のホームページにある芸術選奨歴代受賞者一覧で調べました。

 

二つ目は1973年3月に香淳皇后の古稀のお祝いに際して、宮中御前公演(演目は「お神酒徳利」)を行ったことです。

 

(2)その他の栄誉

落語家として最初ではないですが、芸術祭大賞を2度受賞しています。

 

芸術祭賞は、1946年度に創設されましたが第1回目は結局開催されず、1947年度から始まりました。

 

当初は、「演劇」と「音楽」の2部門でしたが、その後「映画」「舞踊」「能楽」「放送」と分野は広がっていきました。

 

「大衆芸能」部門は少し遅れて芸術祭には1951年度から参加しました。

 

ちなみに第1回目は徳川夢声が受賞しました。

 

落語家として最初に受賞したのは、昭和の三名人の一人とうたわれた八代目桂文楽でした。

 

六代目三遊亭圓生は最初1960年度には「首提灯」で、二度目1972年は「三遊亭圓生独演会」の話芸で受賞しています。

 

ちなみに八代目桂文楽は2度、五代目古今亭志ん生も1度受賞しています。

 

勲章も1973年に勲四等瑞宝章もらっています。

 

これは全くの私見ですが、圓生師がもう少し長生きしていたら落語家として初めての人間国宝になっていたと思います。

 

柳家小さんが人間国宝に認定されたのは圓生が亡くなって11年後の1990年です。

 

人間国宝というのは、文化財保護法第71条第2項の定めにより文部科学大臣から認定された重要無形文化財の保持者のことを指します。

 

「演劇、音楽、工芸技術その他の無形の文化的所産」で我が国にとつて歴史上又は芸術上価値の高いものが「無形文化財」ということになりますから、落語で言えば芸術上評価の高い落語を演じられる者ということになります。

 

確かに小さんもたくさんの古典落語を演じましたし、落語協会会長として落語の普及に努めたことには間違いありません。

 

しかし圓生の場合は、うずもれていた噺を多数復活させ、話芸の完成度もほとんどの人が高い評価をしています。

 

無形文化財としての価値は圓生師の方がはるかに上だと思います。

 

ただ人間国宝に認定された人数を見れば演芸によって極端な差ができています。

 

今までに認定された人間国宝は200名弱ですが、歌舞伎、文楽、音楽、舞踊といった誰もが認める古典芸能の分野の人が大半です。

 

落語が無形文化財として認知されるようになったのはおそらく1980年代半ば頃です。

 

圓生師は惜しくも1979年に亡くなっていますからもう5~6年長生きだったらと惜しまれます。

 

江戸落語への貢献者としての圓生に並び称せられる上方落語への貢献者である桂米朝が、小さんの人間国宝認定後わずか1年で続いて人間国宝に認定されたことを思えば、圓生の活躍した時代にはまだ機が熟していなかったということになります。

 

圓生とその落語完成への道

落語の演目がいくつあるかは正確な統計がないのでわかりませんが、500から600くらいではないかと言っている人もあります。

 

圓生の場合、噺の数は約300と言われています。

 

「圓生百席」という圓生落語の集大成である落語全集に100席が実際に演じられていますから、300という数もあながち誇張とは言えないでしょう。

 

(1)圓生落語とホール落語

落語は、普通には定席と言われる寄席で演じられることが多いので、どうしても20分程度しか演じられず大ネタがやりにくいとか、途中で噺を切ってしまうことが多いのです。

 

その点ホール落語といわれる落語は、独演会や一門会といった形で演じられますので1つの噺が長くいわゆる大ネタが掛けやすくなります。

 

もちろんそのためには当然のことに演者の力が問われます。

 

このきっかけは1953年にラジオ東京が八代目桂文楽・五代目古今亭志ん生・六代目三遊亭圓生・五代目柳家小さん・昔々亭桃太郎の5人の落語家と専属契約を結んだことです。

 

30分の比較的長い噺が演じることが必要ですから、当然のこととして力のある落語家が必要でした。

 

寄席に行く人はほぼ東京、大阪、名古屋の都会の人にほぼ限られていましたが、ラジオ放送のおかげで多くの人が落語に興味を持ち、なかでも圓生の人気も高まってきました。

 

圓生は1953年に落語家として初めてホール落語を始めたのを皮切りに、寄席の定席でも毎月31日の日に独演会を開催していきました。

 

もちろん他の大物落語家もこのような催しを開いていましたが、なんといっても持ちネタの豊富さから圓生の独演会が一番でした。

 

1978年の大量真打昇進問題による落語協会脱退以後は、圓生一門は定席と呼ばれる寄席から締め出されてしまいましたので、必然的にその後は全国各地のホールや独演会が活躍の場所になりました。

 

その過程で1979年329日には歌舞伎座で落語家として初の独演会を開催し、演目は「首屋」「怪談乳房榎」「掛取万歳」でした。

 

しかしこの全国各地を演じて回る過酷さが、老年を迎えていた圓生の寿命を縮めてしまったといえます。

 

アイドルにも匹敵するような忙しさで全国を回り、ファンに落語を聞かせて回ることは、気の遠くなるような仕事ぶりです。

 

圓生は、残暑厳しい8月末日に池袋のサンシャイン劇場で、夏にふさわしいネタである「夏の医者」を演じて完成された話芸で会場を爆笑させ、その3日後に亡くなっています。

 

亡くなったのは圓生の79歳の誕生日である9月3日で、新しくできた千葉県習志野市の後援会発足の記念パーティーに出席していた時です。

 

おめでたい席だということもあってでしょうが「大名小噺」として有名な「桜鯛」を演じて高座を降り、その後すぐに心臓発作を起こし亡くなってしまいました。

 

落語に命を懸けまさに壮絶な戦死とも言うべき亡くなり方でした。

 

(2)圓生落語の落語のすごさ

300もネタがあると説明しましたが、かなりの部分は師匠から教わったものでないということです。

 

子どものころから抜群の記憶力で、習わなくても横で聞いているだけで覚えてしまったようです。

 

ただ覚えるだけでなく大変な努力で噺をつくりあげ完成させたのです。

 

昭和の「河竹黙阿弥」と称される劇作家の宇野信夫氏が「圓生を偲ぶ言葉」の中で、圓生の得意とする人情噺についてこう語っている。

 

「圓生の人情噺は、いわば圓生の創造である。誰から教えを受けたものでなく、また教えてくれる人のいるはずもない。

 

彼は活字(昔の速記本)から独自の人情噺をこしらえあげた。」という言葉です。

上方落語で有名な「鹿政談」は圓生が得意とした噺ですが、桂米朝が演じた「鹿政談」も米朝の談によれば「上方で一時滅びかけていた噺であったが圓生の「鹿政談」が随分参考になった」というのも圓生の噺の正確さを告げています。

 

(3)集大成ともいうべき「圓生百席」

300あるネタの中から自ら厳選した百席の噺です。

 

今はCDで販売されていますが、もともとは1974年5月から1977年10月にかけてLPレコードに吹き込まれたものです。

 

しかも通常の全集は、寄席やホールでの録音が音源として使用されていることが多いのですが、この百席はすべて一話一話スタジオ録音で作りあげたものです。

 

しかも、レコード録音完了後も1979年9月3日に亡くなる直前までこの百席の修正作業に参加されていたこともこの百席にかけた執念ともいうべき熱意が感じられます。

 

まとめ

没後約40年が経過し、実物の圓生師を知る人も少なくなりました。

今でも落語を愛する人たちの間では昭和の三名人(圓生、志ん生、文楽)の筆頭であるとか不世出の名人とも評されています

先に紹介しましたCDになっている「圓生百席」の他著作も数多くあり、今の落語家に対する大いなる遺産だと思います。

また、幸いネットで動画も見ることができるようですから素晴らしさの一端を経験してもらえればと思います。