西行法師とは
西行は、12世紀に平安時代後期から鎌倉時代初期に生きた武士であり、後に出家して歌人となった人である。
武士のころは佐藤左兵衛尉義清(憲清という人もある)と名乗り、鳥羽院の北面の武士(御所の警備)でありました。
諸説ありますが、23歳の時に失恋により出家をし円位と名乗り後に西行となりこの名前が有名です。
西行の歌では百人一首に入っている「嘆けとて 月やはものを 思わする かこち顔なる わが涙かな」が有名です。
しかし、もっとも有名な歌は「願わくば 花の下にて 春死なん この如月(きさらぎ)の 望月の頃」でしょう。
73歳の時に河内の国(現在の河内長野市)弘川寺でなくなるのですが、60歳ごろにお釈迦様がなくなった日に花の下で死にたいと歌にしていました。
自分の願いの通りに亡くなったことが藤原定家や慈円の感動と共感を呼び、当時名声を博しました。
さて落語との関係は、出家の原因となったといわれている失恋の時の噺である「阿漕(あこぎ)」と歌道の上達のきっかけとなった噺である「鼓滝」です。
余談ですが、西行と親交のあった崇徳上皇(崇徳院)の名を冠した「崇徳院」という噺があるのは偶然でしょうか。
目次
・「阿漕」の噺
「西行」と演目とする場合もあります
北面の武士であった佐藤義清は内侍(高貴な女性)に恋をしてしまいます。
なかなか会えなかったのですが、内侍の計らいでやっと阿弥陀堂で会えることとなりました。
ところが真夜中を過ぎてやっと内侍が現れた時には義清は待ちくたびれて居眠りをしてしまいます。
内侍は怒って「我ならば 鶏(とり)なくまでも 待つものものを 思わねばこそ まどろみにけり」とうたって帰ろうとします。
義清は「宵は待ち 夜中は恨み 暁の夢にや見んと しばしまどろむ」と返歌して何とか逢瀬(おうせ)を楽しみます。
別れ際に義清が内侍の袖をつかんで「またの逢瀬は」と聞いたところ「阿漕であろう」と振られてしまいます。
内侍の使った阿漕という言葉は「伊勢の海 阿漕が浦に 引く網も たび重なれば あらわれにけり」
という歌を踏まえた言葉だったのです。
義清は自らが歌道に詳しくないことを残念がり、その後自ら出家して円位(後の西行)と名乗り諸国を漫遊して歌道に励んだというものです。
この噺のオチは諸国修行中に伊勢を訪れた時のことです。
馬方が自分の馬に対し阿漕な馬だと怒っています。
馬方に阿漕の意味を西行が尋ねると「前の宿場で豆を食らったのに、二宿も行かないうちに豆を欲しがった。」と説明します。
そこで二度目のことを阿漕というのだと理解したのがオチになっています。
「鼓が滝」の噺
「西行鼓が滝」とも言います
これも西行が若い時に歌の修行中に摂津の鼓が滝(今の兵庫県川西市)を訪れた時の噺です。
西行はここで「伝え聞く 鼓が滝に 来てみれば 沢辺に咲きし たんぽぽの花」という歌をよみます。
我ながらよい歌ができたとしばらく風景に見入っているうちに夕闇が迫っていました。
何とか一軒の家を見つけて泊めてもらうことになります。
この家は爺と婆と孫娘との三人暮らしの家でした。
ここで夕食をごちそうになりお礼にと西行は自信満々に先ほどの歌を披露します。
するとただの爺さんだと思った爺さんが、ここは鼓が滝なので「伝え聞く」より「音に聞く」にした方がよいと助言します。
なるほどと西行が思ったところに、婆さんが次に「来てみれば」より「打ち見れば」とした方がよいとまた助言してくれます。
西行はいったんムッとしますが鼓が滝だから鼓にちなんで「打つ」の方がよいと感心します。
最後に孫娘までも、ここは川辺郡なので「沢辺」より「川辺」の方がよいだろうといわれます。
その上に「たんぽぽ」よりも「白百合の花」がいいと直されてしまいます。
結局のところ、「音に聞く 鼓が滝を 打ち見れば 川辺に咲きし 白百合の花」と原形をとどめない歌になってしまいました。
悔しさのこみ上げる西行ですがよくよく考えてみると、鼓は手でうち音を出すものであることや場所や花もアドバイスの方がそれぞれふさわしいと思いました。
最初の自分の歌よりアドバイスの方が自分のものよりはるかに良いことに気づき自分の未熟さに気づかされます。
気づいたとたんに三人も家も消え失せてしまい、西行は滝のそばの一本の大きな松に寄りかかってうたたねをしていたようです。
ここで西行は「和歌三神」といわれる和歌の神様が、自らの慢心を戒めるために夢に現われられたと悟ります。
和歌三神とは、爺様が「住吉明神」婆様が「人丸明神」孫娘が「玉津島明神」でしょう。
それから後には西行はいよいよ和歌の道に精進して日本一の大歌人となるというところで噺を終えることがあります。
オチを付ける噺では、西行がたまたま通りかかった木こりに三人の話をします。
そして「和歌の神様に失礼はなかっただろうかと」と尋ねます。
きこりは「大丈夫だ、ここの滝は鼓なので撥(ばち)は当たらない」というのがこの噺のオチになります。
「音に聞く 鼓が滝を 打ち見れば 川辺に咲きし 白百合の花」の歌を百人一首に採用してもらうよう藤原定歌に持ち込みました。
定家は四人で作った歌だからダメとはねられたという噺も残っています。
まとめ
「阿漕」にしても「鼓が滝」にしてもオチが付いていますので落語には当たりますがそれほど面白い噺でありません。
しかし西行ほどの大歌人でも若い時は未熟であったが、ずっと精進を続けて大歌人となったという教訓の噺ではないかと思われます。


